054 優しい嘘





海を見ていた。
寄せては返す。
ありふれた、波だった。
嶋本は波を見ていた。
いや、波ではなく。
その向こうに、ここ数年の自分を思い出していた。



保大を出て。
突っ走ってきた、と思う。
自分でも浅慮だと思う暴走を繰り返してきたと、自覚している。
あの事故も、そうして起きた。
曽田は言った。
『事故はお前がきっかけを作ったとか、やないやないか』
『そやかて!』
否定は更なる否定でかき消されて。
『人によってはお前がしたことは、俺の怪我を上乗せしたいうやつもいてるけど、たいしたことあらへん。お前が気にするようなことはなんにもないんやで?』
あの時は、その言葉で救われた。



なのに。
それが、嘘だったら。
いや、仮定ではなく。
おそらくは真実。
そしてその『優しい嘘』に、さとりも荷担している。
さとりからの電話を切ったあとに、ようやく嶋本は理解した。
さとりに感じた怒りは。
もちろん悲しみではなく。
自分自身に対する怒り、だったのだと。



嶋本が座る突堤から少し離れた場所に、タクシーが一台止まった。
最初は気にもとめなかった。タクシーの運転手がこの界隈で休憩を取るのはよくあることだから。
だが、そのタクシーの後部ドアが開いて、少し背の高い女性が降りたのを見て、嶋本は僅かに瞠目する。
女性は少しあたりを見回して。
すぐに嶋本を見つけた。
嶋本が囁くようにつぶやいた。
「なんで、ここが」
「前もここだったでしょ? 曽田さんが巡視船から降りるって言った時も」
嶋本をみつめてさとりはまっすぐに歩いてきて。
そう言って、小さく苦笑した。



嶋本の横に座る。
1年前、そこから見たのは常夜灯に飾られた巡視船。
今日は出動でもあるのか、巡視船の姿は見えなかった。
さとりは仕方なく、空を見上げる。
昼過ぎの空は、しかし、たれこめた雲が重々しく、今にも降雨を告げそうだった。
「降るかな〜」
「さあ、な」
「傘、持って来てないんだけどね」
「………俺もや」
「あたしたちって、準備悪いね」
さとりが微苦笑する。
「準備っていうか、要領悪すぎだと思わない?」
「……………」
「………曽田さんのこと、まだ気にしてる?」
単刀直入に切り出されて、嶋本は言葉を失った。
「さとり」
「あたしのこと、怒ってる?」
「…………」
「怒ってるよね〜、曽田さんのことなのに、ちゃんと教えてあげなかったんだもん。怒って当然」
でもね。
さとりは続けた。
「あたしは、謝らないからね」
「…………」
しばらくの沈黙に続いて、嶋本は言った。
「あたりまえや」
「え?」
「俺はお前に怒ってへん。むしろ、自分に怒ってる。いろいろと、後手後手になってる、自分に腹、立ててるんや」
「…………」
嶋本は波から視線を外さず、まるで独り言のようにつぶやいた。
「俺にかて、守秘義務はある。それはまもらなあかんし、やけど、お前にも守秘義務があるってことも自覚しとる。曽田さんのことや、俺に怪我のことは言うてえいけど、それ以上は言うなって、言うたんやろ。全部、自分が悪い。俺を潜水士にするために、あの人は嘘をついたんやろ……優しい嘘やな」
「進次」
「やけど」



ひどく、残酷な嘘やな。



静かな言葉に、さとりは一瞬言葉を失ったけれど。
「……進次。さっき曽田さんに会ってきた」
「!」
跳ねたように振りかえる嶋本の顔をさとりはまっすぐに見つめて。
「曽田さんから伝言。俺は特救隊を諦めたけど、潜水士を諦めたわけやない」



『え?』
『まあ、伝えてくれたらわかります。潜水士は船上勤務だけやないんですわ』
さとりが驚くのも無理はない。潜水士は船上勤務、というのはかつて曽田に教えられた話だったのに。曽田はぽりぽりと頬をかいてみせて。
『そりゃ第一線いう意味ではやっぱり船上勤務ですわ。でも、陸上勤務でも潜水士はできます。俺、今年の夏、このリハビリが済んだら、呉で潜水研修、もう一回受けようと思うてるんです』
さとりは小さく頷いた。
去年の暮れ、曽田は小さな手術を受けた。
本当に小さな。
背中から脊髄付近に注射針を打つだけのもの。
だがその時わずかばかり神経を傷つけたようで、右足に本当にかすかな痺れを感じるようになった。
当初の病は手術で完治した。
だから、麻痺さえなくなれば曽田は潜水士として復帰を認められる。
そのための再研修だという。
『船上勤務はまだ先かもしれませんけど、俺は潜水士を諦めません』
再びリハビリのマシンの上に立ち上がり、曽田は胸を張った。
『やから、嶋に言うてください。俺はまた、一からやり直すだけや。だから、お前が気にすることは何一つ、あらへん』




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