061 いってらっしゃい





本当に、欲しいものってなんだろう。
さとりはぼんやりと考えていた。



嶋本の胸で泣いたのは3日前。
翌日も、気づけば夕方まで寝入ってしまっていて。
二人も追い立てられるように普段の日常に戻ってしまっていた。
夕べ、姉のひかりから電話があった。
『古藤くんから電話があったよ。さとりのこと、心配してた』
嶋本にいろいろ聞いたのだろう。
だが、さとりに直接話を出来る勇気がないから、ひかりに電話したと言っていたという。
かつて、幼い恋人同士だった二人は決して嫌い合って別れたわけではない。京都と東京という遠距離は中学生には十分すぎる距離で、二人の関係は自然消滅した。だからこそ、今さとりという共通の『妹』のことで、心配しあえるのだろう。
『さとり』
『ん?』
『古藤くん、詳しいことは言わないのは昔のまんまなんやけどね』
『うん』
『だけど、一言言うてたよ。さとりはおとなしすぎる。欲しいもんは欲しいって言わないと、欲しい時に手元にないよって』
『………』
『姉ちゃんもそう思うわ。さとり、あんたの本当に欲しいものは、ちゃんと声に出して、しっかりと握り締めておきなさいよ?』
『………うん』



欲しいもの。
手元にあってほしいもの。
それは、間違いなく嶋本で。
3日前、泣きながら抱きしめた、ほのやかな暖かさ。
『大丈夫やで。俺はお前のこと、離さんから』
囁かれた優しい言葉に、止まりかけた涙があふれてしまって。
涙が落ち着いたのは明け方だった。
嶋本はずっと、さとりを抱きしめてくれていて。
さとりが壊れた音声プログラムのように並べる単語をひとつずつ拾い上げてくれて。
『お前がえいゆうまで、俺は離さんから』



離さない。
そんなの、あたりまえ。
あたしは、決めたんだ。
あの暗い廊下で見出した、小さな存在。
でも今の自分にとっては、なんて大きな存在。
嶋本進次、という存在は、氷野さとりの中ではもうかけがえのないもの。
だから、辛かった。
でも、あたしが間違っていた。
進次が羽田に行くとしたら、あたしは笑って送り出す。
今なら、言える。
いってらっしゃいって。
ここで待ってるって、いえる。



ねえ、進次。
あたしたち、大丈夫だよ。
きっと、来年も、10年後も、同じように笑っていられると思うよ。
だって、あたしは出会った頃のように進次のこと、大好きで。
この前、進次があたしに言ってくれたことで、進次があたしのこと、大好きだって分かったから。
子どもっぽいかもしれないけど、あたしはそれで大丈夫。
少し離れても生きていける。
そうだよ、進次。
大丈夫。
だから。
いってらっしゃい。




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