五十嵐は黙って見つめていた。
罵声と、元気のない返事と。
阿鼻叫喚の世界が、そこにはあった。
「お、五十嵐さんじゃないか」
阿鼻叫喚の生み出す大魔神さながら、A水槽の脇で仁王立ちしている黒岩が少し離れた場所で水槽の中の地獄をみつめていることに気づいて声をかけた。
「どうも」
「今日は……ああ、そういやそうだった」
広い額をぺちりと叩いて、大魔神は声をあげた。
「おい、ひよっこども、とっととあがれYO! ここはこれから貸切なんだからよ!」
「は、はい………」
悲鳴のような声で4人があがってくる。
五十嵐は静かにそれを見つめていて、その中の一人に声をかけた。
「嶋」
びくん、と跳ねるように嶋本の小さな身体がこわばって。
オイルの切れたブリキのおもちゃのように、ゆっくりと五十嵐に向き直って。
「い、五十嵐さん!」
びしっと見せた敬礼は、黒岩も見たことのないほどの見事なもので。
「元気そうじゃない」
「あ、いや……それほどでも……」
「向こうはみんな元気なの? 氷野先生とか」
「はい、明日来ることになってます」
会話が読めない黒岩は、しかしひよこ一人のために待つこともないと、へろへろの残り3人の首根っこを掴むように去っていく。
「五十嵐、さんは?」
「自分たちも訓練よ。あれごと」
形の良い顎で指し示されたのは、ヘリの機体のみを模したカーゴ。A水槽のすぐ脇に置かれていて、気にはなったけれど何に使用するものかは分からず。
「A水槽に突き落とすのよ。自分たちも乗ったまま」
「え……」
それも訓練なのだという。いざ、ヘリが墜落したときに脱出できるようにと。
「というわけで、これからは航空が使わせてもらうわ。午後いっぱいかかるから。あなたたちは座学でしょ。早く行きなさい」
「はい!」
90度折り曲げての敬礼を決めて見せて、嶋本はその場から走り去る。
五十嵐はその背中を少しだけ見送って、背を見せた。
その口の端に笑みが浮かぶ。
「なんだか、面白そうなことになりそうだわね」
「遅い!」
「す、すんません!」
ぐったりしている3人の隣に座れば、黒岩が半ば睨むように問う。
「嶋本、五十嵐さんと知り合いか?」
「あ、はい。五十嵐さんの前任地、関空だったんで。ちょっとお世話になったことが何度かあって」
「ほぉ〜、そうか」
「はい」
「じゃあ、昨日言っておいた69ページから82ページまでの暗記は、当然済んでるな?」
「へ?」
話の展開が分からず瞬きすれば、黒岩の大きな手の中には教材が広げられて。
嶋本は慌てて、自分の教材を広げて。
「えっと……なんとか」
「よっし、じゃあテストだ!」
4人分の悲鳴が上がったのは、言うまでもなく。
「お、そうだ。4人が95%以上じゃなかったら、腕立て伏せ300回な」
「…………」
もう悲鳴もあがらなかった。