072 自分の中の『過去』





「すまんな、さとりちゃん」
「何をいまさら」
さらりと抗議を口にして、さとりは苦笑する。
「ま、たいした怪我じゃなくてよかったよかった」
肩をぽんと叩かれて、古藤の部下である茂木がようやく笑った。
怪我の痛みと、緊張感で今までこわばったままだった表情が少しほぐれた。
「……お手数かけます」
「お、殊勝な態度やな」
「よ……古藤さん、茶化さない」
「はいはい」
大した怪我でもないので、さとりは看護師に茂木の処置をお願いして、カルテに書き込みを始める。茂木は看護師に誘導されて処置に向かったけれど、診察ベッドに古藤が腰掛けているのが視界の片隅に見えて、さとりは電子カルテに書き込みながら声を上げた。
「古藤さん」
「ん?」
「まだ何か?」
「お、つれないねぇ」
「なんですか、それ」
「さっきも『古藤さん』って」
「あのですね」
電子カルテに承認のサインを入れて、さとりはページを閉じた。さとりは書き込み用のペンを投げるようにテーブルの上に転がして。
「他の方の、特に部下の方がいらっしゃる前でそんな呼ばれ方されたら困るのは嘉治兄ちゃんの方じゃないですか」
「別にかまわんけどねぇ」
「……むかつく」
医師にあるまじき言葉を吐き捨てるように言って、さとりは立ち上がる。
「どこ行くの?」
「休憩です」
「じゃ、俺がコーヒー奢ってやるよ」



訓練中の事故はよくあることだ。
茂木の怪我もそうだ。自分で落下地点がわからずに甲板に激突した。激突した衝撃で左肩に裂傷。とはいえ大したことはない。さとりもそう診察した。
古藤は思わず安堵のため息をつきたくなった。
だが、ふと嶋本のことを思い出した。
今頃羽田で、黒岩にたたき上げられているだろう、小さな姿を。
そして穏やかに茂木に診察結果を説明しているさとりを見て。
わずかな不安を覚えた。
大丈夫、なのか。
こんなにも遠く離れて。



自分の場合はだめだった。
5年つきあった女性だった。誠実につきあって、自分が特救隊に入ってからは遠距離恋愛になったから、ひよこを卒業する頃に押しかけ女房で駆け込んできて、2年同棲して、結婚した。
それでも、だめだった。
『こんなにすれちがいの生活なんて、あたしがいてもいなくても、同じでしょ』
そう告げた妻は、翌日離婚届と結婚指輪をテーブルの上に置き去りにして。
相手の親には不誠実だとなじられた。
何がいけなかったのか。
今でもわからない。
だからこそ、同じ状況になってしまった嶋本とさとりに、不安は感じるけれど、かける言葉を失った。
何を言っても、それは自分の中の『過去』に虚ろに響くような、そんな気がした。




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