古藤から渡されたコーヒーの芳しい香りが、辺りを覆った。
さとりは小さく微笑んで、心配そうに自分を覗き込む古藤に言った。
「大丈夫」
いいのか、と問われた。
不安じゃないのか、と言われた。
「お前が別れたいって言うなら……」
「大丈夫だよ、嘉治にいちゃん」
診察室とはうってかわって、さとりの口から普段どおりの呼びかけが返ってきて、古藤は一瞬瞠目する。さとりは続けた。
「あたしは、大丈夫。進次が羽田に行く前に行ってくれた言葉があるから」
「言葉?」
抱きしめながら言ってくれた言葉。
『大丈夫やで。俺はお前のこと、離さんから』
『お前がえいゆうまで、俺は離さんから』
それが今のさとりを支えてくれる。
それが今のさとりと嶋本の関係の、すべてだった。
そして、さとりの胸の奥で消えない熾り火のようにいつまでも燃え続けているモノ。
「教えない」
「………気になるけど、聞かない方が俺のためか」
「うん。きっと嘉治にいちゃん、砂吐くから」
さりげない惚気に古藤はがっくりと首を落として。
「心配するだけ無駄やったか」
「そんなことないよ。でも、ありがとう。嬉しかったよ」
さとりが顔を上げれば処置室につながる扉を開ける茂木の姿を見つけて。
「終わったみたいね」
「お、連れて帰らないとな」
「うん。じゃあ、あたしは少し仮眠取るから」
数歩進んでさとりは思い出したように振り返って、古藤に声をかけた。
「それはそうと、進次から連絡来てる?」
「いや? 特救隊でなんかあったか?」
古藤がわずかに眉をひそめるので、さとりも一瞬言っていいものか逡巡するように言いよどんで。
「えっと……次の隊編成? で、新しく隊長さんになる人が決まったって。すっごく若いけど、すっごく優秀な人って言ってたな………確か名前は」
「真田、真田甚か」
すぐに帰ってきた名前にさとりも力強くうなずいた。
「そうそう! え、嘉治にいちゃん知ってるの?」
「知ってるもなにも」
古藤は満面の笑みで答えた。「俺が育てた、昔俺のバディだった奴だよ」
「そうなの?」
そうか。
とうとう、そこまで行き着いたか。
真田。
お前はやっぱりすごい奴だ。
レスキューをするべくして生まれた存在だな。
隊長になれば、できることも増えるだろう。
お前のその才能を活かす選択肢も増えるだろう。
だけど、そこに責任も増えることを忘れるなよ。
隊長は、後進も育てなくちゃいけないんだぞ。
お前は……誰を育てるんだろうな?
「その人の隊に進次も配属されたって……うわ、嘉治にいちゃん。気持ち悪いよ。夜の病院の廊下でにやにや笑ってる」
「あ? 気にするな。どうせ思い出し笑いだ」
「……余計気持ち悪いって」