078 コンプレックス





久しぶりに立ち寄った氷野家は、誰もいなくて。
静まり返っていた。



大阪で遠く離れて生活するようになっても、さとりのキーケースから東京の氷野家の玄関の鍵は外されなかった。
滅多に使うことがない、とわかっていても。
外せなかった。
それが、氷野家との唯一のつながりのようで。
『いつでも帰って来ていいのよ?』
そう言われても、大阪と東京、まして医師として日々忙しく生活している上に、休みの度に嶋本の官舎に転がり込むさとりにとっては氷野家はかなり縁遠くなっていた。
だが、久しぶりにふらりと訪れた氷野家は、家人もおらず静かだった。
さとりは玄関でしばらく考えたけれど、キーケースから鍵を出して玄関を開けた。
さとりの部屋は、そのままだった。
本当に、机の上の本の位置まで何一つ変わりなく。
ぽすんとスプリングの効いたベッドに座ったさとりの視界に入ったのは、一冊のアルバムだった。
思わず手にして、広げてみてさとりは苦笑する。
学校時代、集合写真というものが何より嫌いだった。
小学校、中学校、高校、そして大学時代も集合写真を撮る日は必ず『計画的』に欠席した。
だからさとりの写真は右上か左上に四角く切り抜かれて、写っている。
「うわ、ホントお子様だ〜」
いつだって、自分の高い背が嫌だった。
同級生に『さとりちゃんはいいよね〜』と見上げられるのが、何より嫌だった。
集合写真では、撮影するカメラマンが気を使って一番後ろの列か、一番前で座らせてくれた。
だけど、それでも両脇の同級生よりも背が高いのが目立って、やっぱり嫌だった。
いつしか、さとりは自分の背の高さを、嫌って。
自分で小さく小さくなるように呪文をかけて。
『さとり、胸を張らんか!』
いつも優しかった祖父を、一度だけ怒らせた。
極端な、猫背だった。
手足が細く長かったから、さとりの猫背は異様だったに違いない。
だけど、わずかでも視線が低くなることがさとりのコンプレックスを和らげた。
『いいか、さとり。お前が背中を丸めても、何もいいことなんてないんだ。だから、胸を張れ。開き直って世界を見てみろ』
とん、と背中を押されて。
小さく歪に丸められた背中は、それだけで伸びた。
コンプレックスと、言われても仕方なかった。
だが祖父の叱責で、さとりは目を開いた。
たかが10センチ程度変わった世界。
変化はそれだけだったけど。



「それが今や……」
さとりはアルバムを抱えたまま、ベッドに倒れこんだ。
それが今や、自分の方が15センチ近くも背の高い男性とつきあっている。
それにコンプレックスを感じない。
自然に視線が合わせられる。
それは、すごいことだとさとりは思う。
10センチの視界の差が怖くて、小さくなっていた自分。
祖父の言うように、開き直って広がった世界は、嶋本という結果をさとりに与えて。
さとりはアルバムをパタンと閉じて。
「コンプレックスも悪くない?」
気づけば玄関先で、祖母がさとりを呼ぶ声が聞こえていた。




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