079 荒れた唇





あまりにも幸せそうに眠っているさとりを、嶋本は起こさなかった。
ただその唇が痛々しいほどに白く荒れているのを、見過ごせなかっただけなのだ。



鍵を鍵穴にさしこんで、玄関が開いているのに気づいた。
すぐにさとりだと気づいたけれど、声をあげる。
「お前、鍵くらい……」
きっと夕方干してあった布団を入れたのだろう。
太陽の匂いに包まれた布団に抱きしめるようにエプロン姿のさとりは眠っていた。
今週はいけないかもしれないなぁ。
無理すんな。
そんな会話があっても、さとりは時間を見つけては横浜にやってくる。
さとりが無理して時間を作っているのは、わかっていた。
だけど、それを咎めるつもりは嶋本にはない。
ただ最近少し痩せたと思う頬に、触れようとして。
起こしてはいけないと、手を引っ込めた。
そして気づいた。
荒れていた、さとりの唇。



普段からそれほど凝った化粧をしているところを見たことは無い。
さとりいわく「ちょこちょこ」な化粧ぐらいだ。
少し考えれば、小児科医であるさとりが子どもたちの前で、それほどの化粧をしていることなど、考えられず。
スッピンに近い状態で子どもたちと向かい合っているのだろう。
とはいえ、肌が白く細やかなさとりだからこそ気にならないだろうけど。
この唇は、可愛そうだ。
嶋本は不意に思った。
こっそりと、さとりを起こさないように服を着替えて台所に向かえば、夕食の準備はほとんど終わっていて。
「なんや、作るもんほとんどあらへんやん」
嶋本の抗議の声も小さく、すややと眠るさとりを起こすまでには至らなかった。



そっとかけられた毛布の感触に、さとりは思わず身じろぎして。
ゆっくりと見上げれば穏やかな表情の嶋本が覗き込んでいて。
「起こしたか?」
「ん〜……今何時!」
がばりと起きて。壁にかけられた時計を見て、愕然とする。
「10時……」
「なんや今日中に帰らなあかんかったんか?」
「そうじゃなくて、ご飯!」
慌てて立ち上がったさとりは、テーブルの上に用意された夕食を見て、思わず瞬きする。
「あ、れ?」
「お前が起きるまでと思うて待っとったんやけど、さすがに腹減ってな。先に食べてようかと思うて」
「え? でも、あたし、まだ作ってなかったよ」
「ほとんどすんどったわ。ま、座れ」
ぽんぽんと椅子を叩かれて。さとりは素直に従った。



遅い夕食を摂って、後片付けを済ませて。
さとりが占領してしまった布団をベッドに敷いて。
嶋本が再びぽすんと布団を叩いた。
「さとり〜」
「ん?」
「ここ、座れや」
「え?」
「はよ」
「んん?」
促されるままパジャマ姿のさとりが座れば、嶋本が言う。
「目え、閉じろ」
「なに?」
「いいから」
聞きたいことを胸の奥にしまって、さとりは目を閉じた。次の瞬間、唇に感じた感触に慌てて目を開ければ。
「え?」
「こら、目え閉じろ言うたやんか」
「んん?」
「口も閉じとけ。塗れんやん」
嶋本が手にしていたのは、市販のリップクリームだった。
「これぐらいやったら、がきんちょの前でもかまへんやろ」
驚いた表情のまま、動かなくなったさとりの唇にリップクリームを塗って。
嶋本は笑顔で、塗ったばかりの唇に親指を押し当てた。
「な?」
「進次」
「ん?」
「………ありがと」
「おう。もうちょっとクリームくらい、塗れ。唇がかわいそうや」
「ん」




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