最初は小さな拍手だった。
だがそれはやがて満場の拍手になり。
さとりは、達成感で満面の笑みを立ち上がって拍手をしてくれる観客席に向けた。
たまには、こういう、経験も、必要だよ。
そう端山副部長に促されて、書いた論文だった。
救急外来における小児科の役割、というタイトル。
最初はずいぶん大雑把な論文だった。
資料をあれもこれもひっくり返すのに2週間。
嶋本の部屋にまで資料を持ち込んで、書き上げるのに1週間。
端山に差し出した論文は、その内容に感動したという端山によって学会に発表されて。
追加発表に作者のさとりが引っ張り出され。
そして、その追加発表に満場の喝采を受けていた。
笑顔で喝采に応えながら、さとりの内心は。
『早く帰りたい……とにかく寝たい……』
ここ1週間の睡眠時間は一日1時間。通常の小児科勤務と救急勤務、そして論文製作と、嶋本宅の家事。
さすがに家事は事情を察した嶋本によって、厳禁されてしまったので嶋本宅に訪れてもノートパソコンを開いて論文を書きつづける日々を続けて。
さとりの笑顔は達成感に満ち満ちていたけれど。
舞台から降りれば、深く深く溜息を吐いた。
「か、帰りたい……」
「無理だよ。今日はレセプション出席まで」
大学の同期、佐伯に言われてさとりはがっくりと肩を落とした。
「帰りたい、身体が痛い、とっとと寝たい、ビールやりたい、彼氏補充したい」
「どれも却下。ていうか、最後の何?」
「彼氏補充」
「それは聞こえた。どういう意味?」
「あたしの中で」
舞台には次の発表者が身振り手振りを加えながら、論文の補足説明に熱中している。さとりはそれを見ているように視線を向けながら、
「いろんなこと頑張るには、彼氏のパワーを貰いたいの」
「……………氷野」
「いやだ」
けらけらと笑って、氷野は佐伯の肩を叩いた。
「佐伯先生ったら! って、君が想像しているのとはまったく違うって」
「………あっそ」
「ごめん、進次。今日は行けないみたい。この感じだと、顔見れないままかな」
『そうか。ま、無理すんな。最近えらい忙しかったやろ。おとなしゅう帰れ』
「……冷たい」
『あ? あほ言うな。俺が帰るの待ってたら、お前の出勤時間になるやろが』
「………進次、冷たい」
レセプションに参加して、個別に話をしたいというので佐伯に連れられて、いろいろな研究者と話をした。おかげで時間が差し迫り、横浜駅に駆け込んだときに慌てて嶋本に電話をしたのだ。
『おまえな……いじけるんやったら、もうちっと違うときにいじけ。飛行機の時間、あらへんやろ』
「…………」
『文献やらはこのまま置いとくで? 今度来た時に、持って帰れよ。場所取ってしゃあないんや』
嶋本が溜息をつきながら、小さな声で呟いた。
『ほんまに無茶するやっちゃ。それもお前のえいところやけどな』
「え?」
『あ?』
「進次、今のもう一回」
奇妙なリクエストに嶋本はおとなしく従う。
『無茶するやつ?』
「違う、そのあと」
『お前のえいところ?』
「うん……ありがと」
『それがどないかしたんか?』
「ううん。おかげで元気出た」
「………なんや、あれは」
電話を切りながら、嶋本は小首を傾げた。
あと10分で出勤するという時間に慌しく電話をかけてきて、いまいち意味不明な会話を交わして。
さとりは一人満足して電話を切った。
疑問ばかりが脳裏を過ぎるけれど、嶋本は思わず苦笑する。
「ま、そういうところ、俺は好きやで。さとり」
飛行機に乗りながら、さとりが大きなくしゃみをひとつしたのを、嶋本は知らない。