083 桜の花の下で





今年の桜は、見事に咲いたんだなと真田が桜の木を見上げた時。
声をかけられた。
一陣の風が、柔らかく吹いて。
散った桜の残滓を、長身の彼女を浮き立たせるように巻き上げて。



「お久しぶりです、真田さん」
少しアルコールの回った頭で思い出す。
長身の彼女のことは、なんとなく覚えていた。
だが、名前は思い出せない。
困ったように、彼女を見据えていると、同じく少し酔って足元がふらつく嶋本が真田の背中にトンと当たって。
「たいちょ、なんでとまってるんですか……あ」
嶋本が彼女を見咎めた。
「さとり、早かったな」
「そう? 7時といわれて、7時に来たのよ?」
「ん? あ、ほんまや」
ダイバーウォッチを見て、嶋本が溜息をつくのを真田は静かに見ていたけれども。
「嶋本」
「はい? あ、紹介しますわ」



氷野さとり、俺の婚約者です。



「はじめまして、氷野さとりです」
さとりが深々と頭を下げて。
再び顔をあげても、その宴席は奇妙な沈黙に覆われていて。
さとりは困ったように脇に立つ嶋本を見下ろした。
「進次……」
「まあ、待っとれ。やけど、気合入れてな」
「え?」
次の瞬間。
どこの宴席よりも静かだった、その宴席はどこよりもにぎやか、というよりうるさくなった。
その場にいたほとんどが我先に大きな声で怒鳴り始めたからだ。
「なんやと!」
「嶋、お前、こんな美人を隠してたんか!」
「俺はてっきり真田と相思相愛なんだと思っていたぞ!」
「俺たちのアイドルが……」
「氷野先生、俺のこと覚えてはります? 5管で一緒やった」
さとりは突然の洪水に思わず呆気に取られて、言い返す嶋本の横顔を見て、先ほど言われた言葉を思い出した。
『気合入れてな』
こういうことか。
嶋本に連れられて、嶋本が特救隊に行ってからは古藤に連れられて巡視船勤務の飲み会に何度となく参加した。
とにかくあの集団は、飲んで騒いで……脱いではしゃぐ。
3月末だというのに、上半身裸になってけらけらと笑いながら嶋本を小脇に抱えて楽しんでいる隊員と、すぐ脇で困ったような笑顔を振り撒いている女性たちがいる。



『うちの花見は、家族同伴なんや。あ〜…お前のスケジュールが空いたらでえいけど、来うへんか?』
誘ってくれた嶋本の好意と、おそらくは紹介したいという画策。
この機にさとりを、自分の婚約者として特救隊に紹介したかったのだろうが、あまりにも宴たけなわ過ぎた。
「氷野先生、こっちこっち」
見知った顔に促された場所に座れば、女性にうらやましがられるような睫の下の微笑が出迎えてくれた。
「お酒は大丈夫ですか?」
「ええ。車じゃないし、結構飲みますよ」
「じゃあ、注がせていただきますね」
差し出されたコップを受け取ると高嶺の大きな手が小さなビール瓶を持ち上げて注いでくれる。
さとりは両手で受け取り、するとどうやらさとりの一挙手一投足に注目していた回りの隊員が唱和してくれた。
「嶋の婚約者に!」
「乾杯!」



宴会が進めば進むほど、嶋本はあちこちに『貸し出し』されている状況が続き。
さとりは高嶺と真田に挟まれて、仕出しのつまみをつまみながら、ビールをゆっくりゆっくり飲んでいた。
家族同伴の宴会とあっていつもは早いペースで飲むのに、今日はゾンビ化しているのは家族が来ていない若手隊員ぐらいで、いつもだったら古株の隊員に『おらおら、もうちっと飲めや〜』と足蹴にされるのに、放置されたまま。
その身体にはひらひらと舞う桜の花。
さとりはそれを見て、ついと立ち上がった。
一同がさとりの様子に目を向ければ。
さとりは寝込んでしまった若手隊員の首筋で脈診してから、手近にあった毛布をかけて戻ってきたのだ。
「や、優しい…」
「おい、嶋にはもったいないぞ」
小さな囁きはさとりには聞こえなかったが、席に戻って顔を上げれば自分を見つめている顔ばかりで思わず言い訳のように言ってしまう。
「あ、あの…5管の飲み会によく参加してたので……習慣、ですね」




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