086 祖母と孫娘





「さとりさん、いつ結婚するの?」
単刀直入にそう切り出されて、さとりは思わず動きを止めた。



「おばあさま」
「こういうことは時期が来れば、というけれども。向こうの方は、あなた次第だっておっしゃってくださってるんでしょう? だったら、あとはさとりさんが決めることでしょうね」
「………」
さとりは沈黙のまま、少しぬるくなってしまった紅茶を飲んだ。
「まさか、あなた。このまま婚約したままでずっといるなんて」
「いいえ、そんなことは考えてないですけど」
大島紬の訪問着をそつなく着ている祖母、氷野理子はさとりによく似た薄い唇をきりりと結んで、さとりの答えを促す。
「……いろいろと、考えることや準備があるので」
「考えること。準備。それは4年つきあっている間にするべきことではなかったの?」
ぴしゃりといわれて、さとりは数回瞬きして、理子の相貌を見つめる。
いつだって、この祖母は正しい。
正しすぎるのだ。
間違ったことが大嫌いで、言い訳をもっとも嫌う。
さとりが幼いころは祖父が庇わなければ、さとりの掌が真っ赤に腫れるほどよくしなる竹の鞭でたたかれたものだった。
それは虐待ではないと、祖母は信じていた。
だが少し年上の姉に、祖父はよくぼやいていたという。
『あれは、良妻賢母を育てることを良しとして育ったからな。仕方ないんだよ。少しばかり、枠にはまりすぎているだけなんだよ』
祖父と祖母の結婚は、互いの両親が定めたものだったという。
祖母はもちろんのこと、祖父は仕方なくその意に従った。
そして祖母は二人の息子と、二人の娘を『立派』に育て上げたことを自信に、姉ひかりとさとりの『教育』に取り組んだけれど、それは教育ではなく、さとりにしてみれば、
『きつかった』という記憶しか招かず。
「だから私、反対したでしょう。あなたが医大に行くと行ったとき。いざ、結婚するときに女に職業があっては、妨げになります。それは出産、育児でも同じこと。今度無事に結婚できたとしても、子供ができたら、さとりさん、あなたどうするの? だから前もって、そう今度の結婚のことがいい機会でしょう。医者をやめなさい。もともと」
「医者なんて、女がやるもんじゃない……ですか?」
「そうよ」
勝ち誇ったように微笑む祖母の、年の割には若く見える相貌から目を離さずに、さとりはわざとらしくため息をつく。
「おばあさま」
「なに?」
「女は家庭で家事という仕事をするべきだというおばあさまの提案は、もう何度となく聞きました」
「そう。で、どうなさるの?」
「医者は辞めません」
「………さとりさん」
きりりとあがる眦を見ながら、さとりは立ち上がった。
「もちろん、結婚もやめません。子供ができても、仕事は続けます」
「なんてこと」
さとりは立ち上がったまま、祖母を静かに見つめる。
「おばあさま。私は欲張りなんです。医者もしたい、妻もしたい、母親もしたい。ずっとそうしてきたし、これからだってそうです」
「あなたって人は!」
思い通りにならない怒りをこめて自分を見つめる祖母を、ただ静かに見つめて。
さとりはやがて穏やかに笑った。
「おばあさま。私は孫の中で一番、おじいさまに似ているんでしたよね」
『さとりさん、あなたは周一郎さんそっくりだわ。私の言うことを、正しいことを何一つ聞いてくれないところなんて、瓜二つ』
はき捨てるように言われた科白を、さとりは思い出していた。
「………さとりさん」
「おじいさまが歩まれた道を、私は歩みます。そう決めたんです」
立ち去る孫娘の背中を見ながら、理子は立ち上がった。
たとえ今呼び止めたとしても、あの子は振り返りもせずに去っていく。
「周一郎さんが進んだ道……ずいぶん大きく出たものね」
そのひそやかな苦笑は、さとりには届かない。




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