087 自己嫌悪





突然の告白に、さとりは瞠目する。
端山の穏やかな微笑みに、わずかに見え隠れする哀しみを見た気がした。



「ここを、辞めることに、したよ。それで、横浜に移ることに、なったんだ」
「え?」
「………救急外来縮小の話が、出たころから、考えては、いたんだよ。とはいえ、こんなに早く話が、まとまるなんて、思ってなかった、けど」
「端山先生」
「すごくいい条件、でね。そのうえ、新しい救急外来を、作りたいみたい、なんだよ。誘ってくれたの、僕の大学時代の、友人でね。行くって言ったら、すごく、喜んでくれてね」
「端山先生……」
少しずつ区切って会話する端山が自嘲気味に笑う。
「逃げた、といわれたら、それまでかも、しれない。だけど、僕は、もうできることを、したんだよ。ここではこれ以上は、望めない。弊害が、多すぎる」
「………」
政府主導の医療改革。
診療報酬を取得するための、小手先の技術。
採算至上主義に動き始めた、医療機関。
出身大学で上下関係が決定する、学閥主義。
そしてさまざまな専門科の縮小と、廃止。
救急外来副部長の端山は、どこの学閥にも属さない。
利用できるコネクションも、特権も、ほとんどなかった。
『心臓外科の権威・氷野周一郎の孫』という銀のスプーンを生まれながらに与えられているさとりとは違うのだ。
「来る、かい? 氷野先生。実はね。新しく救急外来には、いろんな分野の、専門医を招きたい、みたいなんだよ。それで君の話を、したら。是非とも、来て欲しいって。」
「私は……」
さとりはまっすぐに端山を見つめた。
行きたい。
だけど、今はいけない。
今すぐは無理だ。
端山と違って、小児科に担当患者を何人も抱えるさとりには、身軽な行動はできなかった。
それをわかっていて、端山は問うたのだ。
端山はすぐに微笑んで。
「いいよ。僕も、向こうも、あわてない、から。でも、横浜に移りたいなら、そういう手段も、場所も、あるってことを忘れないでね」
「………はい」



スモッグに覆われた夜空を見上げながら、さとりは冷たいガラス窓に頬を押し当てた。
純粋に、行きたいと思った。
端山についていくのではなく。
嶋本の傍に行けるという打算が働いたことに、さとりは少なからずショックを受けていた。
自分が、そういう人間だったことに。
「どうしたんですか〜、氷野先生」
看護師の李統子がてきぱきと機材の片付けを行いながら、ぼんやりと空を見上げているさとりに声をかけた。
「ん〜……なんとなくね」
「ダメですよ、小児科のラブたんがそんな元気ないとこ見せたら」
「はい?」
聞きなれない単語に、さとりは思わず身を起こした。
相変わらずてきぱきと動きながら、統子が言った。
「知らないんですか? 氷野先生、小児科のラブって言われてるんですよ。ラブはラブでも、ラブラドールのラブですよ」
「なにそれ」
「それだけみんなに好かれてるってことですよ」
けらけらと李は笑ってみせて、さとりが小さな溜息混じりに再びガラス窓に張り付いてしまったのを横目で見て。
「なんか、あったんですか?」
「ん?」
「ラブたんが、いつもにない顔してるから」
「……そう?」
「ええ」
なんだか奇妙な呼称が気になったけれど。
さとりはまた溜息を吐きながら言った。
「自己嫌悪、かな」
「え?」
「自分が……思ってたよりも、醜い人間だって思っちゃったから」
「なんだか……ずいぶんなことに悩んでるんですね」
「うん」
少しばかり暖かい自分の熱が、頬からガラス窓に移っていくのがわかる。
李はまじまじとさとりの横顔を見つめて、静かに言った。
「人間って、どこかしら醜くて、だからこそ泣いて喚いて、それでも精一杯生きているものじゃないんですか?」
「え?」
「完全な生き物じゃない。神様じゃないから。だから、神様に心の平安を与えてもらっている…それだけ不完全な存在なんじゃないですか?」
さとりが李を見れば、峻烈な言葉なのにその口元には微笑みがあって。
李は静かに続けた。
「いいんですよ、きっと。醜いってことに気づくことは」
「…李さん……」
とんと、背中を押された気分になった。




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