088 荒れる波涛の中で





荒れる波涛の中で、救いを待つ手があった。
ホイストマンの合図に、真田は力強く頷いて、自分に続く予定の嶋本を見た。
嶋本は同じく頷きながら、左手の親指を見せてくれた。
真田は小さく笑って、それから降下した。



バシャバシャと音を立てながら、ウェットスーツを洗いそれを軽く降れば、少し潮の匂いのする飛沫があちこちに散って。
近くで昼寝をしていた野良猫が抗議の声をあげながら、走り去る。
「ありゃ、すまん」
謝ってみても、既に野良猫の姿はなくて。
嶋本は思わず微苦笑してから、口元に笑みを残したまま、空を見上げた。
少しどんよりとした空。
薄い雲がヴェールのようにのしかかる。
「嶋本」
「はい!」
振り返れば何かの書類を見ながら、真田が歩み寄るところで。
「夕べの出動状況説明の書類だ。お前も目を通しておけ」
「あ、そうですね。それですか? 見せてください」
真田は嶋本に書類を渡して、機材倉庫に行こうとして足をとめた。
「嶋本」
「はい?」
書類から顔を上げれば、真田が一見分からないほどの微笑を浮かべながら、静かに言った。
「さっきの出動だが」
「はい。俺、なんかへましましたか?」
「いや。むしろ」
真田は幾分俯き加減に微笑みながら、
「むしろ、今日のお前の判断はよかった。お前だからできた救助だ。俺にはできない」
意外な様子と、意外な言葉に嶋本は慌てる。
「いや、そんな! 真田さんのやり方の方がよかったですよ! 俺の方が」
「俺はお前を信頼している」
「はい?」
予想外の言葉に呆気に取られて嶋本をその場に放置して、真田は機材倉庫に向かう。



その、なんや?
また隊長の短縮機能発動か?
つまり……俺のやり方は間違うてない、隊長はそれを認めてくれた、それは俺を信頼してるからや……てことか?
「隊長……俺の翻訳機能、あてにせんといてくださいよ」
全身で脱力する嶋本が見上げた空は。
嶋本の気持ちと関係なく、やはり薄曇の空だった。



荒れる波涛の中で、差し伸ばされた手を掴んだのは真田ではなく、嶋本だった。
嶋本ならでは、いや、嶋本にしかできない救助方法だった。
真田はそれをうらやましいとは思わない。
誰にも、自分が得意とする領分がある。
それはひとりひとり違うのだ。
『真田、お前と同じ人間など、この世界のどこにもいない。だから、お前が出来るレスキューと他人が出来るレスキューは違うんだ』
かつて自分を指導した教官が口癖のように言っていた。
彼は真田が優秀なひよこであることを絶対に否定しなかった。だが、その話に及べばいつも言っていた。
『だけどな、真田。あたりまえだが、人はそれぞれ違うんだ。それを忘れるなよ』
だから、真田は嶋本が間違った救助方法を取ったとは思わない。
いくぶん無理な方法ではあったけれど、命の危険を感じるほどのものではなかった。
嶋本らしい、といえばらしい方法だった。
だから、真田は嶋本にすべてを任せたのだ。
信頼して。




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