090 銀のスプーン





一緒の時間を持てないことが、辛いんじゃない。
傍にいなくても、心が一緒だと言い切れるほど、自分は子どもではない。
けれども、さとりが思うことは、それとはまったく違うことで。
嶋本は黙って、さとりのぽつりぽつりと語る言葉に、耳を傾けた。



「端山先生って、人の話したよね?」
「あ〜……救急外来の部長やったか、副部長やったか?」
「3ヶ月前に辞めたの。理由は簡単。学閥じゃないから、追い出されたのと救急外来の規模縮小に抗議して」
あっさりと告げられたさとりの言葉に、嶋本は静かに頷いた。
「事情はもっと……そう、ホントにいろいろ端山先生が辛くなるような方向へ向かってて。あたしは端山先生が辞めて正解だったと思うの。で、端山先生、辞めることをあたしに教えてくれたときに、新しい救急外来を移る病院で作るから、あたしにおいでって言ってくれたの。病院の場所は」
さとりは低い天井を見上げて。
「横浜なの」
「………そうか」
「多分、端山先生はあたしが進次の話したこともあるし、洋上救急にも出たことあったから、進次の仕事のことも知ってる。それで、自分の行く場所が横浜だから、だから声をかけてくれたのかなって思ってたけど。でも、ホントにそんな話があるのかと思って電話したら、すごいこと言われちゃった」
「すごいこと?」
『僕は、君だから、声をかけたんだ、よ。氷野さとり、という優秀な、小児科医が、欲しくて』
こういう誘われ方は、医者として、いや、人間としてひどく自尊心を擽られる。
今思えば何度か学会に論文を発表させてくれたのも端山だった。
いずれこういう風に声をかけるつもりではなかったにしても、優秀な医師を育てることには長けているのかもしれない。
そう思い返せば、確かに救急外来で端山と共に医療に関わった者の何人かが、ステップアップを理由に京阪大病院を去っていた。
『端山先生』
『君が、来たいというなら、僕は喜んで、迎えるよ』
そういわれて、さとりの心は決まったのだ。
横浜へ。
端山が作ろうとしている、新しい救急外来に参加することを。
私立香洲院総合病院へ移ることを。



「1月くらい前から昨日まで、京阪の方で話してきたの。今すぐというわけにはいかないから、今の担当患者が手を離れるぐらい、9月いっぱいで辞めさせてほしいって。そしたら、ずいぶん引き止められたよ」
「それは……そうやろな」
贔屓目に見ても、時折聞こえてくるさとりの噂は、とにかく優秀だという話ばかりで。
嶋本がプロポーズする少し前、さとりを手放そうと思い至り、さとりと大喧嘩になったのもそんな噂が原因だった。
優秀な小児科医にして、救急医。
患者やその家族から絶大な信頼を寄せられている女医。
論文を発表すれば、いずれもスタンディングオベーションを受ける。
そんな優秀な『医師氷野さとり』を自分の中に閉じ込めていいのか、不安に駆られたのだ。
部外者である嶋本ですらそうなのだから、京阪大学病院にすれば絶対に手放したくない医師だったのだろう。
「あたしは、銀のスプーンをくわえて生まれてきた子だからね」
それはさとり流の揶揄だった。
望んだわけではない。だが、『氷野周一郎』の孫娘であり、同じ医者となった以上は背負わなくてはならない、祖父の名前。
それ故にも、大学病院はなんとしてでもさとりをとどめたかったのだろう。
「でも、あたしは決めたの。大学病院を出て、新しく始めたいって」
「……なあ、お前の言う銀のスプーンは、ここでは通用せんかもしれへんぞ?」
「うん。それでもいいの。横浜に来るよ。それから、進次の奥さんもしたいの」
「そうか」
「うん」



それはさとりが、自分で決めたこと。
それはさとりが、自分の足で歩くと決めたこと。
だが、嶋本は一抹の不安と、寂しさを覚えた。



「俺的には相談してほしかったんやけどなぁ」
ぐだんとテーブルに突っ伏する嶋本を、微笑みながら見やって。
「うん。でも、きっとあたしが進次と一緒になる前の、多分一人で決めないといけないことだったような気がするの」
「そうか」
「うん」




← Back / Top / Next →