「そっか、氷野も出るか……」
「うん」
「………だけど、大丈夫なのか?」
同じ京阪大を卒業し、同期に入った戸内が心配しているのが、決して表面的なお世辞ではないことを知っているからさとりは微笑みながら頷いた。
「うん、大丈夫だよ」
「そうか……外に出ても追い掛け回されることを考えたら、俺は出られないな」
ぽつりと告げる同期の、密やかな羨望にさとりは応えられない。
「でもね」
「ん?」
「これが私が選んだ道だから」
「………相変わらず、理想は高いよな。お前は」
嫌というほど、現実を見せられてきただろうに。
何の仕事でもそうだろう。
夢と希望に燃えて、新人は新しい世界に飛び込む。
そして知るのだ。
外にいては知らなかった世界の歪みを。
外にいては見えなかった世界の矛盾を。
それを変えようとするか、受け入れようとするか。
どちらにしても、新人はやがて世界を知って、新たに入ってくるものの手を引いてやらなければならない。
いくらその世界がゆがんで、矛盾に満ちていようとも。
「まあ、お前の場合は恵まれてるよ」
「ん?」
「香洲院に行くんだろ? あそこはいいぞ、あそこはすごいぞ。いろんな噂を聞くからさ」
さとりはにっこりと笑って。
「じゃあなに、戸内先生も来る?」
「あ〜、いいや……遠慮する」
戸内は煙草をくわえながら言った。
「俺は、ここでやってみる」
「そう」
「ああ」
「わかった」
ずいぶんと引き止め工作が行われたと聞いている。だがいずれもさとりの決意を揺るがすことはできず、院長は溜息混じりにさとりの辞職願いを受けたのだという。
もちろん、捨て台詞というおまけつきで。
『これからは関西の大学病院に勤務できると思わないほうがいいでしょうね』
『それでも』
さとりは胸を張って応えたという。
『それでも、私は行きます。行きたいところへ。したいことをするために』
さとり辞職の情報は大学病院内を駆け巡った。
さまざまな噂が尾ひれをつけたが、中にはさとりの妊娠・家庭に入る説まで流れたけれども、すぐに立ち消えた、さとりはどれも甘んじて聞き流した。
そして若手医師によって、奇妙な行動が行われた。
それは辞職が決まった一部の医師に行われるもので、いわゆる『無視』だった。
戸内も同じ学閥の若手から、参加するように言われていたけれどあまりの馬鹿馬鹿しさに参加を拒み。
むしろさとりから心配されている。
「子どもらに」
「ん?」
戸内は煙草に火をつける。
最初の煙が緩やかに立ち昇るのをさとりは見つめながら言葉を促した。
「一番説得しないといけないのは子どもだと思うぞ。小児科の患者さんたち」
「うん。そうだね」
「氷野」
「ん?」
戸内は煙草をくわえたまま言った。
「頑張れよ」
「………うん。ありがとう、戸内くん」