小児病棟の真中に、遊戯室がある。
小さな子どもたちが遊んだり、ボランティア慰問を受けたりする場所で。
大画面のテレビがあったり、無意味に性能が良すぎるコンポセットがあったりするのだが。
入り口近くに鎮座するのは、大きな大きな黒光りするグランドピアノだった。
「弾けへんの?」
「ん?」
さとりが顔をあげれば、数人の子どもたちがグランドピアノの下からさとりを見上げていて。
さとりは思わず苦笑する。
「なにしてるの?」
「かくれんぼ」
上から見つからないが、おそらく低い子ども目線だと隠れていることにならないだろう、といいたかったけれど。
さとりは何も言わずに覗き込みながら、
「なんか弾いてほしいの?」
「うん」
一人の男の子が一度大きく頭を縦に振って。
小さな声で鼻歌を歌い始めた。
それは有名な曲で。さとりはすぐに理解して。
「あ、分かった。弾こうっか?」
「うん」
静かに流れ始めたピアノの音色に、小児病棟の誰もが耳を澄ませた。
ゆっくりと。
おだやかに。
さとりの奏でるトロイメライは優しく病棟に流れていった。
小児科看護婦長・與井悦子が静かに聞いていた。
「氷野先生……だね」
「え、氷野先生、ピアノなんて弾けたんですか?」
新人看護師が驚いたように声をあげれば、與井悦子は微苦笑しながら、
「前に氷野先生に聞いたことがあるのよ。お母さんがピアニストになれるくらいのピアノが上手で。習っていたことがあるって」
「そうなんですか…でも、すごく上手いですよ。あたし、看護師なるまでピアノやってたんで少しは分かりますけど」
少し鼻を高くする新人看護師を穏やかに見つめて。
與井悦子が静かに言った。
「残念ね……氷野先生がいなくなると。小児科のラブがいなくなるなんて…」
あたしたちの潤いがなくなるわね。
少し奇妙な言葉に新人看護師が小首を傾げると、與井悦子はまたも微苦笑しながら、
「だってそうでしょ。あんないつでも穏やかで大人しい医者なんていないもの。でも、あれくらいあたしたちの話を素直に聞いてくれる医者もいないのよね……」
「あ、そうですよね」
トロイメライを聞きながら與井悦子は呟く。
「頑張ってらっしゃい。あたしたちは何もできないけれど」
ここであなたを応援することはできるから。
いってらっしゃい。
そして、頑張って。
私たちは、ここで応援しているから。