やらなければいけないこと、があった。
それはひとつではなく。
氷野さとりでなくては、出来ないことが山ほど。
「………あ〜あ、なんで一日って24時間しかないんやろ」
さとりの普段は標準語だ。関西で生活した時間よりも、関東で生活した時間が長い所為もあるし、意図的に気をつけていれば標準語が身についてしまっているけれど。
何かの拍子で、ポンと関西弁の発音に戻ったりする。
怒ったり。
気が緩んだり。
山ほどの書類を格闘すること、4日目。
一瞬の気の緩みが、同僚の苦笑を呼んだ。
「あ、ごめん」
さとりより少し年上の坂本信之助が苦笑をごまかすように、ごほんと空咳をして。
「いや、京阪大から来てるのに、全然関西弁話さないから、変だなって思ってたんだけど」
「………意識的に話さないようにしてるだけですよ」
嶋本ですら、さとりの関西弁をほとんど聞いたことがないのに。
「なんで?」
「………理由なんて、ないですけど。ただ、子どもの頃に関西から関東に出てきた時に少し苛められたんですよ。お笑い芸人って」
さとりが、少しばかり言葉を選ぶようになった原因。
おそらくさとりでなくても、はじめて聞く関西弁は自分と異なる言語のように同級生には思えたんだろう。とはいえ、それほど目に余るほどの苛めでもなく、固執する数人が渾名のようにさとりをそう呼びつづけただけで、さとりの回りにはすぐに新しい友人が出来、彼女たちが陰湿になりがちないじめからさとりを守ってくれたのだ。
「お笑い芸人」
「関西弁=お笑い芸人なんて、貧相な発想ですけどね」
目を通した書類の束を、トトンとテーブルに当ててサイズを整えて。
さとりは立ち上がる。
「今日はこれぐらいにします。あたし、帰りますね。だんなが帰ってくるから」
「あ、ああ……あ、氷野先生」
「はい?」
さとりは穏やかに振り返りながら、坂本を見た。
坂本は相変わらず苦笑を浮かべながら、
「ごめん、ね?」
「何がですか? 謝るようなこと、坂本先生してないですよ?」
「うん。でも、ごめんね」
あたし、なんか悪いことしたん?
ねえ、舘くん。
あたし、舘くんが怒るようなこと、してへんよ?
自分よりも少しばかり背の高い少年は、その口元に笑みを浮かべながら。
こいつ、お笑い芸人と同じ喋り方してる。
こいつもお笑い芸人じゃん?
少年に追従する集団はそれを是とするばかりで。
「あ〜、それな」
嶋本が既にさとりが入っているベッドにもぐりこみながら、簡単明朗に応えを出した。
「その話、前もしとったやろ?」
「あ、うん。多分したと思う」
「そん時思うたんやけど、それってな」
お前のこと、好きやったんとちゃうか?
がきんちょのようやる、照れ隠しや。
さとりは数回瞬きして、うつぶせに枕に突っ伏する嶋本を覗き込もうとしながら、
「え? だって、苛めてたんだよ?」
「これやから、女っていうのは〜」
嶋本は顔をあげながら、覗き込むさとりの額にとんと人差し指を当てた。
「好きやけど、素直に言えん。好きやけど、他の友達もおるし、自分のそういう気持ちにも腹が立つ。やから、お前に八つ当たり」
「え?」
「そや。八つ当たり」
「え、ええ?」
一瞬呆然としているさとりを取り残し、嶋本は部屋の明かりをぱちりと消して再びベッドに潜り込んだ。
真っ暗闇の中で、嶋本が言う。
「やけど、そいつには悪いけど、さとりにちゃんとアプローチしてくれんで俺は感謝せなな」
「進次?」
俺は、素直に言うたで。
お前のこと、好きやって。
暗闇の中、さとりはようやく立ち直り小さく笑った。
「そっか、舘くんに感謝なんだ」
「そやな。寝るで、お前も明日早いやろ?」
「うん。お休み」
「おやすみ」