4月の空に、雲はなかった。
真田はその空の下に立つ教会に足を進めた。そしてその下に見知った顔を見つけて、声をかけた。
「古藤隊長」
「ん? お」
軽く片手を挙げて挨拶を返す古藤の表情は、その中の誰よりも晴れやかに見えた。
髪に寝癖はないはずや。
鏡を何度も覗き込んでは嶋本は溜息を吐いた。
この胸の奥底から湧き上がるような緊張感は、気持ち悪い。
なんだか吼えたい気分になった。
「あかん、あかん」
「なにがあかんのや?」
慌てて振り返れば、控え室の扉は全開でにやにやと笑っている古藤と困ったように立っている真田がいた。
「うわ、なんで」
「なんでて。お前さっき俺と会うたこと早、忘れたんか?」
「そういう問題じゃないっすよ。ノックもせんと」
「したわ。声もかけたわ。返事もなかったんはどっちや」
古藤はにやにやと笑いながら、真田に言った。
「今朝から上の空や。ホンマに特救隊でちゃんとやっていけてるか心配になるな」
「大丈夫ですよ。嶋本なら。まあ……これは特殊な状況ですしね」
真田の幾分困ったような表現に、古藤はくすりと笑って。
「そりゃそうやな。隊服以外の嶋なんて見たことないやろ? 白言うたら膨張色なのに、嶋に限って」
「どうせ、白着ぃても膨張しませんわ」
ぼそりと言い返して、嶋本は手袋を嵌めた。
「さとりがどうしても俺は1種や、言い張るんですもん。俺はスーツ着てもよかったんやけど」
『なんでスーツ? あたし、進次の1種、すごく好きだよ。カッコいいじゃない。あれで式に出て欲しいなぁ』
そう言われて、嬉しくて。
「俺の礼服は1種や! 宣言したんです…」
「スーツ、着たかったのか?」
「へ? いや、そういうことじゃないんですけど…」
「真田、これはマタニティ・ブルーだ。気にするな」
「古藤さん、それ言うんだったら、マリッジ・ブルーじゃないんですか?」
「ん? ああ、そうか。そういえば、嶋。さとりの準備が出来たらしいが…いくか?」
「行きます!」
わたわたと準備を整える嶋本を横目に、古藤は真田に言った。
「おい、3隊はこれだけか?」
「いえ、全員来ますよ。高嶺は外で待ってます」
古藤は肩をすくめて。
「そうか。別に嶋以外の人間が来ても、構わないとさとりちゃんは言っていたがな。え〜と、昔の人の言葉だったかな……眼福?」
「目の肥し、ですか?」
「あれは、やっぱり嶋本にやるにはもったいない。そう再確認したけど、遅いかな」
その微笑は、父親の微笑みに近いのだろう。真田はそう思った。
「ちょっと姉さん、これってやりすぎじゃない?」
「あんたねぇ」
ひかりは思わず大きな溜息をついた。
着付けの間中、鏡を見せなかった妹の、着付けが済んで完璧な状態を見ての開口一番がそれだった。デザイナーとしては嘆息することしか出来ない。
「こんな見事な花嫁衣裳で、その花嫁衣裳を見事に着こなしてるのにまだ、文句があるっての!」
「いや、そうじゃなくって派手すぎじゃないかって」
「このぐらいでよろしい」
静かな言葉に、姉妹の舌戦はあっという間に終息する。
留袖姿の祖母がついとひかりの前に歩を進めて、さとりの全身をくまなく見て。
そして微笑んだ。
「すごくいいわよ。さとりさん」
「おばあさま」
「おめでとう。ようやくこの日を迎えられたわね」
口調は相変わらずだけれども。
紡がれた言葉はとても優しく。
さとりは小さく頭を下げた。
そして言う。
「おばあさま、これからもご迷惑かけると思いますけど」
「おやめなさい」
ぴしゃりと制止されて、さとりは慌てて顔をあげた。
だが微笑を絶やさないまま、理子は言った。
「私は何もしていませんよ。結婚式の日に花嫁に一生分の感謝をささげられるほどのことをね。感謝するなら」
ついと理子が見つめた窓際には。
理子がこの控え室に入ってくると同時に風呂敷包みから出して置いた写真立て。
家族4人で撮った、最後の写真。
座っている母。
その肩に手を置く父。
その二人の前に立つ、まだ幼いさとりと、父の脇に立つひかり。
みんなが穏やかに笑っている、写真。
このすぐあとに起こった、悲しい出来事をまだ知らない、家族の、最後の幸せだったひと時。
さとりは写真に向かって小さく頭を下げて、小さな声で呟いた。
「父さん、母さん…生んでくれて、ありがとうね……」
どこからか、母のピアノの音色が聞こえた気がした。
優しい、ドビュッシーの『月の光』が。