『まあ、いいだろう』
特救隊に所属している以上、休みの過ごし方まで基地に報告しておかなければならない。
それを疑問に感じたことは一度もなく、朝専門官が出勤しているであろう時間帯に電話をすれば佐藤専門官は一瞬言葉につまったけれど、特に言い返すわけでもなく嶋本の言葉を受け入れた。あまりにもあっけない言葉に嶋本の方が拍子抜けを感じていた。
「いいんですか?」
『いや、いいも悪いも。お前さん休みなんだし。その間は真田が何とかするから、あいつに呼び出しが回るようなことはするなと、釘をさされているからな』
「真田さんが?」
『だから、ゆっくりしてこい。東北か……いいなぁ』
新幹線のプラットフォームの隅っこで電話をした嶋本が少し離れた場所で心配そうにのぞいていたさとりに向かって、OKサインを出す。
満面の笑みになるさとりを見ながら嶋本は一人ごちた。
「まあ、いまさら帰って来いいわれても、無理な話やけどな」
遠くの山の頂には残雪。
すでに二人は東北に来ていたのだった。
「ようこそいらっしゃいました」
深々と会釈されて、嶋本は内心戸惑いながら声を上げた。
「お、お世話になります」
「はい」
やわらかい笑顔で一人違う色の着物を着ている女性が一歩前に出た。
「お電話いただいてようございました。今日はちょうど離れが空いてるんです。よいお部屋がご用意できました」
この宿の女将だという女性に誘われて、二人は奥に進む。
古い旅館だとさとりから聞かされていた。
だがほどよい間接照明や、それほど仰々しくないインテリアが古すぎず、新しすぎず、旅館の雰囲気をほどよく示しているようで。
「おばあさまが何度かおいでになられましてね」
「ええ。聞いてます。だから思い出したんですけど」
「そうですか。ここからはどこにおっても見えるんですけどね、特に離れからの眺めは一番なんです」
旅館の本棟から少し離れた場所にあった離れに入れば、ほどよく温まった空気が3人を包む。
「北欧風の暖炉を入れてます。夜お寒いようでしたら、薪を入れてくださいね」
そういいながら、しかし女将はまっすぐに南の壁に向かい、カーテンを開けた。
「あれが、梅岳です」
「………あれが」
ようやくわかった。
さとりが来たいと言った理由が。
どうしてここを選んだのか。
嶋本は困ったように振り返ったさとりの自分より少し高い場所にある頭を少し背伸びして、ぺちんとたたいた。
「な」
「お前な。こういうことはちゃんと言えや」
言うてないと、決心つかへんやんか。
お父さんに、挨拶する決心が。
梅岳。
それはさとりの父が、病状の母を励ますために雲海の写真を撮りに登り。
そしてさとりたちの下に帰って来なかった山。
今までさとりはこの山に近づくことさえできなかった。
行きたいと思ったことなどなかった。
祖母や姉たちが父の供養のために、山に入るのをただ見送ることしかできなかった。
怖くて。
悲しくて。
何もできなかった。
今でもできれば近づきたくない山だ。
だけど、今日は大丈夫な気がしていた。
横に嶋本がいるから。
きっと、大丈夫。
さとりが静かに伸ばした手を、嶋本は何も言わずに握り締めた。
優しく。
力強く。
それが、嶋本の応えだった。