105 洋上救急





帰ってきた真田が最初に声をかけたのは、高嶺だった。
「高嶺」
「はい」
狭い医療室の片隅で、大きな体躯の高嶺が額に浮かんだ汗を拭いながら、真田の密やかな言葉を聞いて、一瞬眉をひそめて。
「本当ですか」
「自分はそのつもりで連絡したわけではない。もちろん、名前を出したわけでもない。だが、結果的にはそうなってしまった」
「…………あの人のスキルは、かなりあるほうだと思います」
今のところ意識は戻らないけれど、小康状態の少女の経過を見ながら、嶋本はだが背後の密やかな会話が気になった。
「嶋本」
「はい」
振り返れば、真田が見下ろしていて。
静かな声で告げた。
「洋上救急に切り替わった。巡視船で医師による処置が済み次第、ヘリ搬送になる」
「そうですか」
「それから」
続いた真田の言葉に、嶋本は数回瞬きをくりかえし。
「え?」
「洋上救急にあたってくれるのは、香洲院病院の嶋本さとり、医師ということだ」



全身に響くようなローター音を聞きながら、さとりは慣れた様子で低い姿勢のままヘリに乗り込んだ。手渡されたヘッドフォンを迷うことなく装着してから、機長席を覗き込む。
「五十嵐さん」
『お待たせしたわ。2名と聞いているから、すぐに離陸するけれど。問題は?』
洋上救急の経験者はさとりだけで、看護師の佐野武臣はヘリ搬送につきあった程度だとさきほどヘリポートで待っている間に聞かされた。その佐野が不慣れな様子でヘリの乗員にヘッドフォンを当てられているのを見ながら、さとりは言う。
「何も。すぐに出してください」
『了解』
切れ長の眦を少し微笑ましげに変えて。
五十嵐恵子は言った。
『またあなたを乗せられるなんて、光栄だわ』
ヘッドフォンを通してその声を聞いていた、副機長の富岡が信じられないものを見たように五十嵐を見て。
さとりも微笑み返して。
「こちらこそ。では、よろしくお願いします」



ピー。
高い警戒音に、医療室の空気が一瞬にして代わる。
「嶋、呼吸入れて!」
「はい」
「小夜子ちゃん、小夜子ちゃん!」
高嶺の呼びかけにも少女の身体は反応しない。
高嶺の心臓マッサージに、小さな体がむなしく揺れる。
刻々と。少女の体が、終結へと向かう。
「電気入れるから、離れて!」
電気で少女の小さな心臓は、身体は跳ね上がり。
乱れた心電図は、やがて規則正しくなる。
この繰り返し。
「なんでや、蘇生はしてるのに」
そのとき、船内周知音が鳴り響き。
『ヘリが着船する。乗員は注意せよ、乗員は注意せよ』



まだローターが動くのを感じながら、さとりは促されるようにヘリから降りた。五十嵐が機長席で軽く頭を下げるのが見えた。
後部甲板で見慣れぬ中年の男性保安官と、見慣れた顔の特救隊の隊服姿の真田がいた。
小走りに駆けよりながら、男性保安官に頭を下げた。
「香洲院病院の嶋本です」
「船長です、こちらが」
「嶋本さん、こちらへ」
真田が誘導しながら、船長と名乗った保安官に言った。
「自分たちは知り合いですので」
「そうか、では頼みます」
「はい」
誘導されて、狭い船内廊下を進めば医療室とかかれたドアを開けた。
「隊長!」
「どうだ、様子は」
「3分前に蘇生しました」
「そうか」
高嶺がさとりに頭を下げる。最奥で呼吸を安定させるためのエアバッグを握っている嶋本が幾分眉を顰めながら自分を見つめていることにさとりは気づいたがあえて指摘せずに、高嶺と会話する。
「最後の意識回復は?」
「30分前に一度」
「DC(電気的除細動)は何回?」
「15回は越えてます」
「アレスト、DCの繰り返しね……脈は?」
「蘇生すればしっかりしてるんです」
さとりは脈を取りながら、聴診器を当てる。
そして肌蹴させた胸の、幾分黒ずんだ様子を見て、
「高嶺さん」
「はい?」
「この打撲傷。いつからありました?」
高嶺も覗き込んで、数度頷きながら。
「救助された時には既にありました。転覆の時、いろんなものが飛んできて、身体にぶつかったと一緒にいた母親も打撲傷が多くて」
「佐野さん!」
さとりが声をあげれば、準備を始めていた佐野が顔をあげた。
「はい」
「メス、消毒。それから同意書。親がいるんですよね? このまま開胸します」
てきぱきと準備を整えるさとりが呆気にとられている嶋本に声をかけた。
「進……嶋本さんはそのままエアバッグ続けてください。バイタル確認忘れずに」
「あ、はい」
「高嶺さんはあたしの補助。佐野さんは……輸血パッチ」
「え?」
「早く! 腹腔内出血の可能性が高いから、輸血と輸液の用意!」
「はい!」




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