106 めぐりあわせ





血液で汚れた手術着を手際よく脱ぎ捨てて、医療廃棄物のマークの入ったダストボックスに投げ込んだ。
投げ込んだ瞬間、ふわりと鉄の匂いが漂ったけれど。
もう、慣れた。
センサーが反応して、手術室のドアが開いた。
すぐ脇の家族待合室を覗くと、数人が弾かれたように立ち上がった。
「えっと、小夜子ちゃんの身内の方は?」
「母親です!」
両手を強く握り締め、額に大きな手当ての跡が見える中年女性が身を乗り出す。
「小夜子は、小夜子は!」
「落ち着いてください。とりあえず、座りましょうか」
さとりが母親の両肩を抱いて、すぐ傍のソファに座らせ、自分はその前で跪いた。
「まず、当面の危機は脱しました」
立ち上がっていた全員が、長い息を吐き出した。
だがさとりは穏やかな表情を崩さずに、
「ですが、まだ意識が戻るまでは油断できません。心肺停止状態が何度も続いたので、重大な身体的障害を残しているかもしれません。まだ、分からないんです」
「そんな……」
握り締められた両手が白く、震える様子を見つめながら、さとりは続けた。
「ですが、お子さんの場合、まだ脳細胞が成長段階ですのでたいした障害も残らない場合もあります。まだ……本当にわからないんです」
「………先生」
「はい」
振り返れば立ったままの男性が項垂れるように頭を下げて。
「ありがとう、ございます」
「え?」
「娘のために、巡視船まで来ていただいて、手術まで」
「いえ」
それが私の仕事であり、私のしたいことですから。
さとりは穏やかに笑って。
白く握り締められた拳を、ゆっくりと触って。
「大変でしょうけど、今は身体を休めて。お嬢さんが回復するには、少し時間がかかるかもしれません。長期戦に備えなくては……ね?」



「助かりましたか」
「さっき香洲院病院から連絡があったよ。手術は成功、あとは意識回復で様子を見るって」
「そうですか……」
真田が深い溜息を吐いて、佐藤専門官に頭を下げた。
「よかったです」
「ああ。電話をくれたのが、香洲院病院の救急外来部長だったんだけどね」
佐藤は思い出す。
『本当によく、うちを指名してくれました』
門倉と名乗った電話の主が、静かに言った。
『救急外来に力を入れているとは言え、洋上救急経験者はそんなに多くないし、まして小児科の洋上救急経験者なんて、そうはいませんし』
『小児科の救急医の数が少ないとは聞いていますが』
『何より、うちの嶋本の場合は、経験と知識があります……海保のね』
『うちの、特救隊に身内がいるとか』
佐藤はそれ以上は言わず、門倉もそれ以上は問わず。
だが、一言だけ言った。
『めぐり合わせ、でしょうね』
「めぐり合わせ、なんだそうだ」
「え?」
佐藤は微笑みながら、真田を見た。
「その女の子が助かったのは、そういうめぐりあわせ、なんだと。その部長さんは言っていた」
「めぐりあわせ……」



「そか、じゃあ今日は遅うなるな」
『ごめん、あ、でも。ポトフ作ってあるから、暖めて食べてね。ご飯は冷蔵庫に……』
「ああ、わかったわかった」
嶋本は、矢継ぎ早に自分の食事の心配をするさとりの口調がおかしくて、思わず苦笑する。
『なんか……いやな感じのお返事ね』
「いや? 気にするな。それより、今日の女の子、意識戻ったんか?」
『あ、うん。2時間くらい前に。すごいね、あんなに心停止を繰り返したのに、今のところ目に見える障害が何一つ起こってないのよ』
「すごいな」
『うん……進次』
「あ?」
『人って、すごいね』
嶋本は思わず妻の声が響いている受話器を見つめて。
「……そうやな」
『あたし、本当に今日、すごいって思えたよ』
「ああ」
『すごいね、人って』




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