107 インフルエンザ





『ざどりがぁ〜?』
思わぬ声に、さとりは一瞬受話器をぽかんと見つめてしまった。
誰? 今の声?
だが、すぐに思い至る。
「進次?」
『ぞや…なんや、おででわがらんが?』
東北訛りというより、いつか出張で見た『なまはげ』の声のようで。
さとりは一瞬眉を顰めた。
「なによ、その声」
『ずぎで言うでるんやないわ』



「あらら」
嶋本家に帰り着けば、嶋本はベッドの中で小さく丸まって、かすかな唸り声を上げていた。
「あだまいだい、のどいだい、ごぎゅうでぎん」
「39度8分。見事な風邪…じゃないかもね」
さとりは手にした電子体温計を枕もとに置きながら、嶋本を覗き込む。
「進次、歩ける? 病院、行こうよ。多分、流行りのインフルエンザだよ」
「いんぶるえんざ?」
「うん。あたしはワクチンしてあるけど…。進次はしなかったの?」
する予定だった。だがすっかり忘れていたのだ。高熱で横になっていてもなんだか揺れ動く頭を必死に回転させて、嶋本は声をあげた。
「ざどり」
「ん?」
「病院行ぐ前に、ぎぢとだいぢょうにでんわする…」
「あ〜、分かった。あたしがしてあげるから。病院にも電話するから、ちょっと待っててね?」



「え?」
『うちの隊は全滅に近いです。さっき、高嶺からもインフルエンザだと連絡がありました。仕方ないですね、ゆっくり休ませてください』
真田の言葉に、さとりは小さく溜息をついた。
どこから貰ってきたのか、分からない。
だが、この2日で特救隊からも既に7人ものインフルエンザ患者がいるという。
さとりはふと思った。
少数精鋭を誇る、特救隊だ。
もしひとつの隊の人数を超える7人が急遽、出動できなかったら。
さとりの問いに、真田は淡々と答えた。
『もともとは、5人ほどしかいなかった特救隊です。1週間ほど7人が休んでも、問題ありません』
「そうですか。真田さんはワクチンしてます?」
『まだです』
さとりは隣の部屋から聞こえる嶋本の咳を聞きながら言った。
「既に保菌していれば効果はないですけど、しておいた方がいいですね。少し時間は遅いですけど、香洲院においでになれば手配をしておきますけど」
『そう…ですね。お願いしましょう』
「はい、じゃあ」
手配を整えて、さとりは嶋本に声をかけた。
「進次」
「ん?」
「頑張って歩いて。病院、行くよ」



手際よく予防接種の準備を整えるさとりの様子を見て、真田が言った。
「お手数かけます」
「いいえ。むしろあたしがやらなきゃいけないんですよ。ごらんのとおりの惨状で」
あははと笑うさとりの周辺は、ちょっとした地獄絵図だった。
血のにじむハンカチを額におしあてている女性。
泣き叫ぶ子ども。
アルコールの匂いを漂わせている中年男性。
「救急外来というのは、えてしてこんな感じです。人数も足らない。だから、出来るものが出来ることをするんですよ。そういうスキルと、経験と、覚悟の出来たスタッフでないと、やっていけません」
手早く予防接種を済ませて、さとりは真田に言う。
「はい、すみました。止血できるまでもうちょっとここでここ、揉んでてください」
「嶋本さん」
「はい?」
片付けてこようとトレイを持ち上げたさとりが振り返れば、真田が涼やかに言う。
「嶋は?」



嶋本は、よく眠っていた。
さとりは肌蹴た布団を治して、背後に立つ真田を見やって苦笑する。
「いつもより、変な顔でしょ」
「……鼻がつまっているのか」
「ええ」
嶋本は、口を大きく開けて、眠っていた。



翌朝。
嶋本の熱はしっかり下がり。
その代わりに、さとりが寝込むことになった。
「さとり、予防接種しとる言うたのにな?」
「じだの。ごれば、がぜなの!」
「俺が移したみたいやな」
けららと笑って、嶋本はさとりの氷嚢を変える。さとりは小さな声で言った。
「りんご」
「ん?」
「うざぎざんりんご、だべだいの」
「そうか。じゃあ、ちょっと待っとけ」
少しして口に含まされたりんごの、甘やかで冷たい果汁に、さとりは安心して目を閉じた。




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