顔をあげれば、そこには。
かつて常に傍にあった顔だった。
驚いたように。
そして、言葉を紡ぐ。
「さとり、ちゃん?」
「結婚、したんだね」
胸のネームプレートを凝視するように見つめて、男は小さく呟いた。
「嶋本」
「うん。今は嶋本さとり」
「そう……僕も変わったんだよ」
「え?」
差し出された名刺を受け取ると、そこには『三宮貴一』と書かれていた。さとりは目を眇めてそれを見つめて。
「三宮…三宮産科の?」
「うん。あれ、知ってるんだ。そこの一人娘と結婚したからね」
かつて、京阪大学医学部でさとりの2年先輩だった、松本貴一。
かつて、さとりの横にいつもいた顔。
さとりが初めてつきあった、男性だった。
「周産期治療の講習で月に一度ほど来てるんだ。まさかさとり……嶋本先生がここで働いているなんて」
「いいんじゃない。さとり、で」
さとりが小さく笑うと、三宮は照れくさそうに鼻の頭をぽりぽりと掻いて。
「いいのかな?」
「うちのだんなは、貴一先輩のこと、知ってるよ。あたし、全部話してあるから。だから…こんなことで怒らないよ」
『松本……ああ、お前のモトカレな。ええよ、いっといで。俺の飯は心配せんでもえいからな〜あ、そや。迎えがいるんやったら電話してこい』
電話の向こうであっけらかんと言っていた、嶋本のことをさとりは思い出す。
「愛されてるんだね。さとりちゃん」
飲みかけていたワインが、気管に入ってさとりは思わず噎せこんだ。
「な、なん……」
「ん? 違うの?」
「……」
昔からそうだった。
あっけらかんと恥ずかしいことを言ってのける。
さとりとつきあって欲しいと言い出したときもそうだった。
『僕は君のことが好きなんだよ。だから僕のこと、好きになってみる?』
そういわれて、済崩しに付き合い始めて。
三宮が卒業して、福岡の大学病院に勤務するまで2年、つきあった。
別れを切り出したのも彼だった。
『僕は君のこと、まだ好きだけど。でも、君のためには別れたほうがいいと思う。もっと……君のことを大切にしてくれる男とつきあいなさい』
そういわれて、そんなものか、と素直に頷いた。
「貴一先輩」
「ん?」
「じゃあ、聞きますけど。貴一先輩も結婚されたんですよね」
「うん」
「愛して……ます?」
「うん」
素直に頷かれて、さとりはそれ以上の言葉を失う。
「そうですか」
「そうだよ。すごく大切にしたい人だよ」
相変わらずだ。
呆れを通り越して、さとりはおかしくなった。
変わっていない。
何一つ、変わっていない。
だが、三宮は意外な言葉を口にした。
「でも、さとりちゃんは変わったね」
「え?」
「イキイキしてるみたいに見えるよ。香洲院で会ったとき、全然違う人だと最初思ったんだから。なんだろうね……前がよくなかったんじゃなくて、きっと今がすごく幸せだからかな」
「………貴一先輩。聞いてて蕁麻疹が出ちゃいそうなくらい、恥ずかしいですって」
「あは。そういうところは昔のまんまだね」
駅舎から出ようとして、さとりは気づいた。
「あちゃ」
小雨がぱらぱらと降り始めている。
改札を抜けるまでは降っていなかった。
バッグの中を見ても、普段入れてある折り畳み傘は見当たらなかった。
官舎までは走れば5分。
少しくらいは濡れてもいいかな、と外を見てさとりは気づいた。
「やっぱり忘れとったやろ。持ってきて、正解やったな」
「進次」
笑顔で2本の傘を持ち上げる嶋本の姿が見えた。