久しぶりの電話だった。
鳴り始めたコール音にさとりは安堵の溜息をつく。
古藤は、仕事中携帯電話の電源を切っているので、数回のコール音で『電源が入っていないためにかからない』とお仕着せの女性の声に断られるのが多い。
数回鳴ったコール音は、古藤の声で切れた。
『おう、さとりちゃんか?』
「お久しぶりです。お元気ですか?」
『ああ。お前らちぃとうるさいわ!』
どうやら宴会の最中だったようで。古藤はよいしょと声をあげる。喧騒が幾分遠くなったので宴会の席から離れたようだった。
『ごめんな、うるさかったな』
「ええ、少し。早いですね、まだ」
ちらりと時計を見やれば、まだ6時。
古藤は電話の向こうで大きく笑って。
『そうやな。まあ、歓迎会やってたんやけどな』
そのとき、古藤は小さな声で『あ』と言って。
『そうや、さとりちゃん。嶋が前にすごく尊敬しとって、でも潜水士止めなあかんなった人って、確か』
「名前?」
『そう。曽田、言わんかったか?』
「ええ」
古藤は何を言うのだろう。さとりは怪訝そうに首をかしげながら、受話器の向こうから流れ込む古藤の言葉に耳を傾け。
次の瞬間、息を呑んだ。
「ほんと……、それ?」
『そんなこと、嘘つけるか』
今日は出動もなくて、穏やかな一日だった。
ただ。少しだけ気になる話を、黒岩にされた。
『なあ、嶋本よ。お前、そろそろ教官助手、やってみんか』
『いや、です!』
『うぉ、即答かよ! ちっと考えてみろよ。お前みたいなミニマムサイズが、お前より遥かにでかいヒヨコたちをビシバシ鍛えられるんだぞ? 惹かれんか? ん?』
『う……』
確かに、誘惑はある。
だが、とにかく半端なく忙しくなる。
そんな話を、かつて古藤から聞かされていただけに、嶋本は眉間に皺を寄せて。
『いや、です!』
「はあ」
溜息と同時に家の玄関を開ければ。
「あ、お帰り〜」
パタパタとさとりのスリッパがせわしくなく音を立てていて。
暖かさを感じる料理の香りが、嶋本の鼻をくすぐった。
「お風呂、沸いてるよ〜。先入ったら?」
「おう」
キッチンから顔を出したさとりが、満面の笑みで寝室に向かう嶋本の背中に向かって言った。
「進次」
「あ?」
「あのね」
「ん?」
にっこりと笑いながら、さとりは言った。
「曽田さんのことなんだけど」
「………曽田さんがどうした?」
「今週から、嘉治にいちゃんのバディになったらしいよ?」
嶋本以来や、俺のバディになれる奴が潜水班に入ってきたのは!
大喜びの古藤の言葉。
ええか、名前は曽田淳一郎言うんや、覚えてるか?
そうや、嶋本に伝えておけよ、さとりちゃん。
あいつはちゃんと戻ってきたって。
ちゃぽん。
水滴の音だけが響く浴室で、嶋本は考え込んでいた。
かつて、目標だと目指した男。
ようやく、ようやく近くまで辿り着けたと思ったのに、結局自分の所為で、彼は彼自身の上を目指すことを断念せざるを得なかった。
現場では、死ねない。
ぎりりと握りこまれた、白い拳に言葉を失い。
巡視船の真新しい白い壁に、自分の拳を打ちつけて、憤りを、悲しみを、押し流そうとしたけれども。
持ってしまった喪失感は、しばらく嶋本を傷つけた。
潜水士となって、古藤の下で働いていた頃も。
たった一言、かつての同僚に投げかけられた言葉に動揺して。
そのたびに、さとりに、古藤に、曽田に、迷惑をかけた。
喉の奥からこみあげるものを感じて、嶋本は慌てて両手で湯をすくい、顔にかける。
バシャバシャという音の向こうで声がした。
「進次ぃ、着替え、置いとくよ」
「お、おお」
「早くあがっておいで。今日はビーフシチューだよ♪」
「さとり」
「ん?」
更衣室につながるガラスの向こうで、さとりが動くのがわずかに見えた。そんなさとりの姿を見つめながら、嶋本が言う。
「曽田さんのこと」
「あ、その話はお風呂出てからにしようね」