「研修、ですか」
「ああ。君が、希望を、出すんなら、推薦してもいいと、思ってる」
久しぶりの端山の口調に、耳を慣らしながら、さとりは考え込む。
「そう、ですねぇ」
「いい話じゃないかよ。受けるんだろ?」
門倉ER部長の言葉に、さとりは小さな溜息を吐いて。
「少し」
「ん?」
「少しだけ、考えさせてください」
と答えた。
「いい話、だったでしょ」
にまりと笑いながら、休憩室でさとりにコーヒーを差し出したのは、同じ小児科所属の医師、澤木篤則だった。さとりは溜息を吐きながら、肩を竦める。
「ま、ね」
「おやおや。何より嶋本先生にって、話だったのに」
自分がはじめて聞く話ではないのか。疑問を視線に含ませれば、今度は澤木が肩を竦めて。
「正式なお話はたぶん、嶋本先生が最初。嶋本先生が断れば、次が控えてる」
「次?」
「そう、次」
紙コップのコーヒーを一口飲んで、澤木が言った。
「何より優遇されてるんですよ、嶋本先生は」
それはねたみではなく。
事実を確認するように、告げられた言葉。
「だって、ここまで優秀な小児科医、なかなかいないからね」
それは、賞賛。
さとりが自分で築いてきた地位を、ここでは認めてくれる。
氷野周一郎の孫、ではなく。
京阪大学きっての秀才ではなく。
一個人の優れた小児科医・嶋本さとりとして。
これを望んで、大学病院を、関西を出た。
わずかな年数で、それがかなえられたことをさとりは感謝している。
香洲院病院に。
端山に。
スタッフに。
そのご褒美、としての研修なら、行きたい。
だけど。
「だんな、なんて言うかな〜」
「うわ、澤木先生、痛いところ言いますね」
「だって、そうでしょ」
半年、日本を留守にする研修なんだからね。
「ただいま〜」
声と同時に、どさりという音。
さとりが慌てて顔を出せば、嶋本が玄関先でへたりこんでいた。
今日も、飲み会。
なんとか帰り着いた様子で、へららと笑いながら靴を脱がせようとするさとりの項に顔をうずめようとする。
「ちょっ、進次。靴が脱げないでしょ」
「ええわ、そんなん」
「よくない。ほら、脱いで。脱がせて欲しいなら、脱がせてあげるから」
「ん〜」
かなりの酒気を漂わせながら、嶋本はにへらと笑った。
「よろしく」
「はいはい」
ここ数日、飲み会が多い。
それを問えば、嶋本は眉根を顰めながら、
『実は、勧誘されてんのや。黒岩さんに』
『黒岩さん? なんの勧誘?』
『……仕事上の話なんやけど』
『あ、ごめん。じゃあ、聞かない』
さらりと引いたけれど。
何か、あるようだった。
ここのところ続いている飲み会は、ずっとその続きだろう。
ベッドに放り込んで、何とか着替えさせると嶋本はすぐに寝息を立て始めた。
疲れている。
さとりはそう思って苦笑した。
これじゃあ、相談なんてできないな。
「しかた、ないね…」
小さな呟きと吐息は、熟睡する嶋本の耳には届かない。