116 お前の居場所





まもなく夏、という頃だった。
久しぶりの夫婦揃っての休日。
嶋本はちらりと横を見やった。
さとりが、いつになくはしゃいでいた。
何かを押し隠すように、はしゃいでいた。



「それでね、マサルくんがね」
「さとり」
「ん?」
「いいながら視線を外すんかい。わざとらしいわ」
「………進次」
「なんや。言いたいことがあるんやったら」
いらいらとしながら、嶋本は立ち上がった。さとりが慌てて続く。
「え、なに?」
「俺におこっとることがあるんやろ」
「え、なんで? なんでそうなるの?」
「言うとくけど」
嶋本は足を止めて、少しばかり視線の高いさとりの目を見上げた。
「俺は、浮気はしてへんで」
「浮気?」
「そや。どんなに寂しうても、お前だけや。お前しかおらへんし、俺の子生むのは、お前だけや」
あまりにもまっすぐな言葉に、さとりは周囲の視線を気にして、
「だ、誰も進次が浮気やなんて」
「じゃあ、なんなんや?」
「………」
仁王立ちの小さな夫に、さとりは溜息混じりに真実を話すことになった。



嶋本の答えは、分かっている。
諸手を上げて、お前がそれをしたいならと、送り出してくれるだろう。
今までだってそうだった。
これからもそうしてくれるだろう。
でも。
本当にそれでいいのだろうか。
本当に、いいのか?



「行って来いや」
淀みなく告げられた言葉に、さとりは目を細めた。
嶋本は腰に両腕を添えたまま、さとりを見上げながら言う。
「お前の望む道やろ。進めや。なんで迷う?」
「………だって」
「俺が浮気するとでも」
「そんなこと、思うてへん!」
普段になく荒げられた声に、嶋本は瞠目する。
「さとり」
「思うてへんよ、そんなこと! 進次はすっごくあたしのこと、大事にしてくれる。大事にしすぎて、大事にしてくれすぎて、だから……」
だから、怖いのだ。
その優しさに、甘えて。
その優しさに、きっと自分という重荷を背負わせてしまいそうで。
人を助ける望みゆえに、空高く駆けるその翼を、折ってしまいそうで。
「進次が悪いんやない、あたしが悪いんよ。それはわかってる。ていうより、あたしが思い込んでるだけかもしれへん。でも、でも……」
「それでも」
深い溜息と共に、嶋本はぽつりと言った。
「それでも、さとり。お前は選んだんやろ? お前の人生を。それに、俺も選んだんや。そんな人生を選んださとりを」
「え?」
伸ばされた手が、ポンとさとりの頭に載せられて。
「行って来い。お前のためやない。俺のためにも、行って来い。俺はここで待ってる……お前が俺の居場所なように」
俺も、お前の居場所や。
軽く叩かれる頭。
さとりは喉の奥が熱くなるのを感じて。
目じりを伝う、涙に気づいた。
そして一度気づけば、涙はとどまることなく流れ始めて。
「お、おい。さとり」
「進次ぃ〜」
ぐすりと鼻をすすりながら、さとりは俯き、まるで幼子のようにしゃくりあげる。
長身の女性がしゃくりあげる姿は、少しばかり周囲の視線を受けて。嶋本は慌てて、
「ちょお、さとり」
「しんじぃ〜」



近くのベンチに座らせて、水に濡らしたハンカチを差し出すと、さとりは小さな声で礼を言った。
「……進次」
ん?」
「ごめん」
「まったくや。道路の真中でがきんちょみたいに泣かれたら、俺、どんなひどい旦那や思われるか」
「……ごめん」
「……まあ、しゃあないけどな」
「……進次」
「あ?」
「あたし、行っていい?」
両瞼をハンカチで抑えているさとりの表情は分からない。
だが、嶋本は一瞬の迷いも見せずに言った。
「ああ、行って来い」




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