まもなく夏、という頃だった。
久しぶりの夫婦揃っての休日。
嶋本はちらりと横を見やった。
さとりが、いつになくはしゃいでいた。
何かを押し隠すように、はしゃいでいた。
「それでね、マサルくんがね」
「さとり」
「ん?」
「いいながら視線を外すんかい。わざとらしいわ」
「………進次」
「なんや。言いたいことがあるんやったら」
いらいらとしながら、嶋本は立ち上がった。さとりが慌てて続く。
「え、なに?」
「俺におこっとることがあるんやろ」
「え、なんで? なんでそうなるの?」
「言うとくけど」
嶋本は足を止めて、少しばかり視線の高いさとりの目を見上げた。
「俺は、浮気はしてへんで」
「浮気?」
「そや。どんなに寂しうても、お前だけや。お前しかおらへんし、俺の子生むのは、お前だけや」
あまりにもまっすぐな言葉に、さとりは周囲の視線を気にして、
「だ、誰も進次が浮気やなんて」
「じゃあ、なんなんや?」
「………」
仁王立ちの小さな夫に、さとりは溜息混じりに真実を話すことになった。
嶋本の答えは、分かっている。
諸手を上げて、お前がそれをしたいならと、送り出してくれるだろう。
今までだってそうだった。
これからもそうしてくれるだろう。
でも。
本当にそれでいいのだろうか。
本当に、いいのか?
「行って来いや」
淀みなく告げられた言葉に、さとりは目を細めた。
嶋本は腰に両腕を添えたまま、さとりを見上げながら言う。
「お前の望む道やろ。進めや。なんで迷う?」
「………だって」
「俺が浮気するとでも」
「そんなこと、思うてへん!」
普段になく荒げられた声に、嶋本は瞠目する。
「さとり」
「思うてへんよ、そんなこと! 進次はすっごくあたしのこと、大事にしてくれる。大事にしすぎて、大事にしてくれすぎて、だから……」
だから、怖いのだ。
その優しさに、甘えて。
その優しさに、きっと自分という重荷を背負わせてしまいそうで。
人を助ける望みゆえに、空高く駆けるその翼を、折ってしまいそうで。
「進次が悪いんやない、あたしが悪いんよ。それはわかってる。ていうより、あたしが思い込んでるだけかもしれへん。でも、でも……」
「それでも」
深い溜息と共に、嶋本はぽつりと言った。
「それでも、さとり。お前は選んだんやろ? お前の人生を。それに、俺も選んだんや。そんな人生を選んださとりを」
「え?」
伸ばされた手が、ポンとさとりの頭に載せられて。
「行って来い。お前のためやない。俺のためにも、行って来い。俺はここで待ってる……お前が俺の居場所なように」
俺も、お前の居場所や。
軽く叩かれる頭。
さとりは喉の奥が熱くなるのを感じて。
目じりを伝う、涙に気づいた。
そして一度気づけば、涙はとどまることなく流れ始めて。
「お、おい。さとり」
「進次ぃ〜」
ぐすりと鼻をすすりながら、さとりは俯き、まるで幼子のようにしゃくりあげる。
長身の女性がしゃくりあげる姿は、少しばかり周囲の視線を受けて。嶋本は慌てて、
「ちょお、さとり」
「しんじぃ〜」
近くのベンチに座らせて、水に濡らしたハンカチを差し出すと、さとりは小さな声で礼を言った。
「……進次」
ん?」
「ごめん」
「まったくや。道路の真中でがきんちょみたいに泣かれたら、俺、どんなひどい旦那や思われるか」
「……ごめん」
「……まあ、しゃあないけどな」
「……進次」
「あ?」
「あたし、行っていい?」
両瞼をハンカチで抑えているさとりの表情は分からない。
だが、嶋本は一瞬の迷いも見せずに言った。
「ああ、行って来い」