「すごい、量だね」
「ですよね……どうしましょうか、これ?」
親指と人差し指で書類をつまんでひらひらとさせたかったけれど……出来なかった。
渡された書類はA4のバインダーの留め金を跳ね上げさせる限界まで止められている。
さとりが最後のページを確認して、溜息をついた。
「82ページですって」
「おお、すごいすごい」
「たんなる研修旅行じゃないんだ。なんだ、修学旅行みたいなもんだと思ってたから、僕も行きたいと思ってたけど」
さとりが溜息をつきながら書類の山を広げたのは、香洲院病院の第一勤務室。
香洲院病院は大病院でありながら、それぞれの科別の控え室ではなく大会社を思わせるようなワーキング・フロアに医師たちの勤務用のテーブルが置かれている。
医師同士の交流、科を越えた連携を望んだ病院側の方針だという。
だからさとりが院長室に行くことも、どういう用件で呼び出されたのかも知っていた同僚たちが、さとりの持って帰ってきた書類を並べて遊んでいるのだ。
「で、ヨーロッパコース?」
「う〜ん……」
さとりは溜息を吐きながら、院長の言葉を思い出す。
『君が行きたいところを、自分で調べて出しなさい』
『え?』
『そのための研修だ。年に一人、半年ほどの期間を外国の優れた医療機関で研修として過ごしてもらう。そのテストケースとして、君が選ばれた。君が行きたいところに、行きたいだけ、学びたいだけ行けばいい』
あまりの放任にさとりが言葉を失えば。
端山がゆっくりと、言った。
『君の、真価が、問われるかも、しれない』
真価。
その言葉が、なんと重々しく自分の上にのりかかることか。
さとりは思わず溜息を吐く。
ここが勝負どころやで、さとり。
脳裏で嶋本の声が聞こえた気がした。
『君が医師になった理由は?』
『……え?』
『答えられないのか?』
研修医として医局に入ったとき、その時の外科部長だった首藤武夫に問われた。突然の大きな問いかけに言葉を失った。
かつて母を亡くした自分が、小さな子どもが力なく、声をあげることすら出来ないのを救ってあげたいと思って医師を目指したことを、すこしばかり威圧的だった首藤部長にすぐには言い出せなかった。だから、首藤部長は言ったのだ。
『考えろ。答えがあるはずだ。そこに、君の真価があるはずだから』
そんな言葉を、不意に思い出した。
「真価、か……」
「ん?」
すぐ横で同じく書類と格闘していた坂本信之助が顔をあげた。
「何か言った?」
「いや、なんでも………坂本先生」
「ん?」
少しばかり年上で、内科が専門の坂本が小首をかしげるのを見つめながら、さとりは独り言のように言った。
「自分の真価って……なんなんでしょう」
「…………すごいことを悩んでるんだね」
一瞬言葉につまったけれど、坂本は苦笑しながら言う。
「言葉の通りなら、真実なる価値だとは思うけれど。それは誰が決めるのかな?」
「え?」
「正解なのか、違うのか僕には分からないけれどね。でも」
穏やかに。
ゆっくりと選ばれた言葉に、さとりは一瞬瞠目して。
坂本の言葉に、微笑みながら頷いた。
「なんや、今日はご馳走やな」
嶋本がテーブルに並ぶ食事をざっと見通して、キッチンのさとりに問う。
「なんかえいことでもあったんか?」
「うん。研修の場所が決まったの」
「お。どこや?」
「アメリカ。ニューヨークに5ヶ月。自分で決めたんだよ〜、あそこなら小児科救急も何箇所もあるし、英語もなんとか出来るから」
嶋本は思い出す。
実はさとりが、英語、フランス語、ドイツ語に堪能なことを。
「そうか。そのお祝いか」
さとりなら、人種の坩堝であるアメリカでも十分仕事をこなせるだろう。
「うん」
「いつからや?」
「来月。今年中には帰ってくるから、寂しいだろうけど頑張ってね」
さとりの笑顔に、嶋本は笑顔にガッツポーズで返した。
「よっし、毎晩飲むで〜」
「進次」
「はい、すみません」
真価って、きっと自分が一番知らなくて。
でも、ひとがその真価を形作っていくんだよ。
それでも、自分が望むように真価を導くことはできると思うよ。
それが自分を磨くことであり、努力することじゃないのかな?
微笑む坂本の言葉を、さとりは忘れないように心の中にしまった。