126 せっかくの





「すまんかったなぁ………せっかくの休みにつき合わせて」
「ん?」
振り返れば、小さな姿が一層小さく見えた。
さとりはにっこりと笑って。
「何を仰る。進次の大切な隊長さんでしょ。あたしにとってもそうだよ」
「……そうか」
「うん」
「でもよかったね。本当に何の異常もなくって。びっくりしたよ? 真田さんって、気化したガソリン目一杯吸いこんだって聞いた時は」
一瞬、用意していた聴診器をぽろりと取り落とし、さとりは自分がしていたであろう表情を思い出して苦笑する。
「ER勤務してても、気化ガス満タン吸いましたって人はまず出会えないからねぇ」
「やっぱり」
「うん。でも血中濃度は十分下がってるんでしょ? あれだけしっかりしてるんだったら問題ないよ」
さとりは微笑む。
嶋本も思わずつられて笑う。
「そうか、なら安心や」



ニュースの中で見た映像。
渦巻く潮に、ゆっくりと飲まれていく遊覧船。
木の葉のように揺れる救難艇にかすかに見えるオレンジと黄色のウェットスーツ。
ああ、進次がいる。
ふとそう思いながら見たニュースだった。
そして今日、あの時の『負傷者の一人』が真田だと聞いた。
いや、嶋本は真田が気化ガスを吸い込んだ、としか告げていないけれど。
何かが、あった。
おととい帰宅した嶋本が酒気と共に吐き出した溜息に、さとりはそんな意味を感じていたから。
だが自分から問いただすようなことはしない。
絶対にしない、と決めているから。
嶋本が語らない限り、さとりはそれ以上立ち入るつもりはなかったけれど。
「でも………」
「あ?」
「よかったのかな、あたし。要らんこと言ったんじゃないの?」
さとりの言葉に、嶋本は肩を竦める。
「さあな。そんなことはないと思うけどな。なんか宿題がどうとかこうとか言うてはったけど」
「そんな、神兵が解けない宿題なんて」
「隊長、言うてはったなぁ……誰のことやろ?」
真田が言う『隊長』。
不意に思い至って夫婦は顔を見合わせた。
「あ? 古藤隊長?」
「え? もしかして? 嘉治にいちゃん?」
遠く神戸の空の下で、盛大なくしゃみがあがったことを、羽田の空の下の二人は気づくはずも無かった。




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